「元気があれば何でも出来る」これはその通りだと思う。では元気が出ない時は?そもそも元気とは?
●前提
前提として依存症は精神の病です。最近はうつ病などの精神の病でも、骨折などの肉体の病と同じように動けなくなる、という認識は広がっていると感じます。依存症とうつ病はかなり親しい関係らしく、依存症からうつ病へ、うつ病から依存症へと併発する事は多いそうです。
●体と心の例え話
肉体と精神の関係は夫婦のようなもの。一方(肉体≒行動)が外へ仕事に行けなくなっても、もう一方(精神≒感情)が内で家事をやらなくなっても家庭が機能しなくなる。どちらも大切な役割を持っている。 そしてこの家庭の中には本棚(知識≒思考)が置いてある。外で本を入手して本棚が充実するほど、行動できる世界が広がる。
ある日、本棚に温泉旅行の本が追加されました。(温泉、旅行、楽しそうという知識) 元気な身体「問題無くいけます」 元気な精神「行きたい!」 →旅行に出発(行動する)
病気の身体「行けません…」 元気な精神「行きたいんだけど…大丈夫?」 →身体が元気になるまで延期(行動したい)
元気な身体「問題無くいけます」 病気な精神「それどころじゃない」 →計画さえ出来ない(行動出来ない)
精神的に弱っていると、肉体が万全でも行動がついてこない。そして、家の中の問題は外から視てもはっきりと見る事が出来ない。 意志の強さは、知識を得て、身体と精神が噛み合って初めて生まれる。 「意志が弱い」とは 知識が乏しい(知らない)状態や、精神が弱っている(または興味がない)状態を外から見た[他人目線の評価]でしか無い。 依存症の場合は特に意志が弱っている そしてそれは外からはとても見えづらい
●怪我や病気を治すには
肉体の軽い病気や擦り傷は身体を休めれば治る、しかし大きな怪我は治療や手術が必要。 精神も同じように治療や手術が必要な場合がある。 肉体と精神の大きな違いは、肉体は「形あるもの」であり外から見えるし触ることも出来るが、精神は思考と同じで「形のないもの」であり、見えないし触れられない。
精神の不調は肉体に現れるが、自分では見る事が出来ない。うわの空、疲れた顔、虚ろな目のような表情などの小さな変化は、自分の目からは見えづらい 人は自分の内面どころか外面も、意識しないと見過ごしてしまう生き物である
まずは自分が不調であると気付く事、気付いて納得出来たなら心身をめいっぱい休めること。 悲しい辛い怖いと感じるものから離れて、うれしい楽しい大好きと感じるものをのそばに行く。 ※過去のトラウマなどは過ぎた時間のぶんだけ大怪我になっているので、治すのには長い時間がかかります。その傷は辛い記憶とセットにあるので、無理をしてはいけません。
●精神的なものと、精神論(綺麗事に感じるもの)
人は体験したものしか本質を理解出来ない。 包丁が切れる物だと知っていても、引きながら切る、添える手の指は曲げておく、という事はやらないままでは「知る(見る、聞く)」事は出来ても「識る(知識を納める)」事が出来ない。 そして精神的なものには形が無いから、なおさら知るだけでは分かりにくい。
人は自分が理解出来ない「良い事」とされる事は綺麗事だと感じてしまう? 整理整頓、一日一善、大きな声で挨拶、応援や声援、親切、思いやり…
精神的なものを重視する人がいるのは、物質的なものに手を尽くした上で、精神的なものを大切にすることが行動、成功への近道だと体験しているから。永く言い伝えられるだけの理由がある けれども、自分の精神が納得しないまま命令で動かされても理解には結びつかずに不満が生まれてしまう
●ものは試し、まあいいや
頭の本棚の中に答えが無いものは、いくら考えても答えは出ない。悩みの迷路でさまようだけ。 想像では体験を埋めることは出来ないし、疑いの目線では真実が見えにくい。 出来事に身を任せてみて、自分がどう感じるのか。 気楽に、なんとなく、やってみても良いかなと思えたものを試しにやってみる
●可能性
人の肉体や行動には、「精神が求めるもの」を実現する力が必ずある。知識と、活発な精神を手に入れれば願いに手が届く。 まずは心身を十分に休めましょう。サボりや怠けではなく「自分を大切に」してみましょう。 人から言葉をもらったら「自分に向き合ってくれた相手の言葉を大切に」してみましょう。 これならやってみても良いかな、と思えたら「自分の思いを大切に」してみましょう。 自信は行動した後から付いてきます。ものは試しで小さな事からやってみましょう。

